6月29日と30日はXデザイン学校の浅野先生に声を掛けていただき、名古屋市立大学で開催された日本デザイン学会の秋季研究発表会に参加してきました。
学んだ事をそろそろ目に見える成果として示せ!というメッセージだと受けとめ、気を引き締めて朝6時に自宅を出発しました。
学会なる世界の催しに参加するのは初めてだったのですが、良くも悪くも(?)新しい世界で、色々と新鮮な学びがありました。
1日目の夜に浅野先生が「参加してひとつでも気づきがあればそれでいい」と話されていたのですが、自分にとっては「市民(非専門家)がデザインを行っていく時代に自分がどう関わっていくべきか、という事について考えさせられ、ある程度の答えを得ることができたように思えます。
サービスの開発の際は「自分自身や自分の親しい人が、痛みや課題に直面している事が大切」という話はよく見聞きしますし、前回のブログにもそれに関する悩みめいたことを書きました。
自分がサービスデザインなりUXデザインの仕事をする場合、どこまでいっても他人・他社の課題ではないか?と思うところがあったのですが、それは私のデザイナー感がある意味古かったのだと思います。課題を持つ人をエンパワーメントして協創・共創するような存在になるべきで、きっとそれが今後のプロフェッショナルなデザイナーの姿なのでしょう。
協創・共創の重要性については、色々なところで言われていますが、これまでよりも深いレベルで腑に落ちで、参加した甲斐があったと感じました。
以下自分用のメモとして振り返りです。
一番印象に残っているのは、東京大学の須永剛司教授による講演でした。
これまでのデザインの歴史を振り返りながら、各段階でのデザイン主体や対象を整理したうえで、市民(非専門家)自身がデザインを行っていく未来を示されていました。
デザイナーがスタジオに篭って解決策を一生懸命考える時代ではないとも。
また、現実は複雑で不確実なものであり、芸術の知(構想する知・造形する知)と科学の知(設計する知・実装する知)の両面を使わなければ対応できない。
それを統合するのするのがデザインの知なのではないか。
芸術と科学の歴史を比べると、圧倒的に芸術の歴史のほうが古い。科学は専門店な学習(トレーニング)が必要である、と。
科学の知で説明しても市井のおっちゃんおばちゃんはわからん。ただ芸術の知は何万年も前から染み付いているから理解できる。
その流れでの「芸術の知を科学の言葉で説明するのはやめませんか」という提言はかなり衝撃をうけました。
世界の殆どを占める、言語化できない測れないものをどう伝えるか感じるかといった、常に考えていることにも通じ、もう少し理解を深めたく、著書を読んでみようかと思います。
午後のオーガナイズドセッション。「これからの社会人のデザインの学び」でも「方法論よりも多彩なメンバーとの交流」といったお話がでていました。
山崎先生が話されていた「デザインの学びの課題」は今でもなお自分の課題でもあるので、苦笑いしながら聞いてしまいました。
自分の興味がそっちにいっていたせいもあると思いますが、ポスター発表でもワークショップの手法やプロジェクト推進に関するものが多かったように思えます。
浅野、佐藤の両老師やXデザイン学校のメンバーらとともに味仙で食事。安定の旨さ。
その後は高橋さん、山縣先生、勅使さん、加藤さんと、クーラーも店員の気もきかないお店で、男だらけのUX談義に花を咲かせ名古屋の夜はふけてゆくのでした笑