少し前のことだが、朝、庭で猫を遊ばせているときに、お隣さんから「あー美味しかった」という声が漏れ聞こえてきた。
果物かお菓子か、頂き物を食べたのかなと勝手に想像したが、なにかを食べたのか詳しくはわからない。お隣さんは幸せ上手なのだなと、感心してしまった。
神谷美恵子さんの「生きがいについて」を読んだときも感じたが、生きがいや幸せというのは、そんなに大層なものでもないのだろう。
大音量で刺激的な生きがいが溢れていて、小さな生きがいが聞こえなくなっているのではないか。小さな生きがいに耳を澄ますことができる人は立派だなと思う。
と、書いてみておもったが「耳をすます」はと漢字で書くと「澄ます」なのか。
曇った耳では雑音のなかからひとつを聞き分けることはできない、ということか。そういえばアシタカは「曇りなき眼で見定める」と言っていたな。
眼も耳も知らないあいだに曇ってしまい、小さなことがわからなくなってしまうのだろう。
お隣さんはきっと幸せのセンサーが澄んでいるのだろう。
なぜか天声人語みたいになってしまった。